ルカの福音書 9:51-62

御顔をエルサレムに向けて

ルカの福音書は今日から第二の区分に入ります。第一の区分はガリラヤ伝道、第二の区分はガリラヤからエルサレム への旅、そして第三がエルサレムでの出来事 です。興味深いことは、マタイもマルコもガリラヤからエルサレムへの旅については短いスペースしか割いていない ことです(マルコは1章、マタイは2章)。 それに対してルカの福音書はここから19章に至るまで、何と約10章も割いています。そしてここにこの福音書に しか出て来ない「良きサマリヤ人のたとえ」 や「金持ち農夫のたとえ」、「放蕩息子」「不正な管理人」「金持ちとラザロ」「パリサイ人と取税人の祈り」「ザ アカイ物語」などの話が出て来ます。そうい う意味ではここからさらにルカ独特の面白い箇所に入って行くと言えます。

さて、51節は「さて、天に上げられる日が近づいて来たころ、イエスは、エルサレムに行こうとして御顔をまっす ぐ向けられ」と始まります。「天に上げられ る日」とは、イエス様が地上での働きをすべて成し遂げて、天に昇られる日のことを指しています。これは単に地上 での仕事を終えてもと居た場所に戻るという ことではなく、私たちに天国の門を開くためです。しかしそのためにまずイエス様が通らなければならない深い谷が ありました。それはエルサレムにおける十字 架の御苦しみと死という恐るべき谷です。イエス様はその神の「時」がいよいよ迫って来たことをはっきりここで自 覚されました。そしてご自身の御顔をエルサ レムにまっすぐ向けて歩き始められたのです。このことはイエス様について二つのことを私たちに示していると思い ます。

一つはイエス様のこれからのエルサレムでの苦しみと死は、決して不運な出来事とかアクシデントではないというこ とです。イエス様はエルサレムで何が自分を 待っているのか、そこでどんなに大きな犠牲を払わなければならないのか、すべてを知った上で、父なる神の御心に 従い、決然とそこに向かって進んで下さっ た。それと共にこの「御顔をまっすぐ向けられ」という言葉にはどんなニュアンスがあるでしょう。それはイエス様 の内側には戦いもあったということではない でしょうか。やがてイエス様はゲッセマネの園で「父よ、できますなら、この杯をわたしから取りのけてくださ い!」と祈られます。また十字架上では「わが 神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか!」と叫ばれます。しかしイエス様は父なる神の御心を成 し遂げるため、また私たちの救いを勝ち取る ために、あらゆる恐れや悲しみの気持ちを振り払って、御顔をエルサレムに固定して進み始められたのです。このイ エス様の姿を私たちはまずしっかり自分の心 に刻みたいと思います。

さて、そのイエス様は人々からどんな扱いを受けたでしょうか。53節には「サマリヤ人はイエスを受け入れなかっ た。」とあります。これはイエス様のこれか らの受難の歩みを暗示するものです。エルサレムに向かう旅に出発した直後からこうだったのです。そんなサマリヤ 人を見てヤコブとヨハネが「主よ。私たちが 天から火を呼び下して、彼らを焼き滅ぼしましょうか。」と言います。さすがボアネルゲすなわち雷の子と呼ばれる 彼ららしい激しい言動です。しかしそれはイ エス様の御心に一致するものではありませんでした。イエス様は悪を見つけたら、その場で一つ一つ処罰するためで はなく、人々を救うために来られました。確 かにやがてすべての悪をさばく日が来ますが、今は救いの時です。ですからイエス様は彼らを戒められ、今はこのよ うな扱いを甘んじて耐え忍ばれたのです。こ れは福音を伝える今日の私たちにも当てはまるでしょう。私たちも福音を伝えた相手が受け入れなかったり、ひどく 反発したりすると、まるでその人たちをサタ ンの手下であるかのように考えてしまいがちです。そしてヤコブとヨハネのように直ちにさばきを!と願うような気 持ちを持つことはないでしょうか。しかしイ エス様はそのような態度を戒められ、今はその人々を赦し、福音を宣べ伝えることに没頭されました。私たちもその ようにあるべきことをこれは教えてくれてい るのではないでしょうか。

57節からのところには、3人の弟子候補者のイエス様との会話が記されています。ここから私たちはイエス様につ いて行くとは何を意味するのかを教えられる ことができます。まず一人目の人が言いました。「私はあなたのおいでになる所なら、どこにでもついて行きま す。」 しかしイエス様は言われました。「狐に は穴があり、空の鳥には巣があるが、人の子には枕する所もありません。」 この弟子志願者は「どこへでも行きま す」と言っていますが、イエス様について行 く生活は心地良いことばかりではありません。動物たちでさえ、住みかや眠るための場所を持ちますが、ご自身には 枕するところもない。イエス様は栄光に輝く 天の御座を捨てて、頭を置く場所さえない暗いこの世に来られました。ベツレヘムでの誕生の時からそうでした。宿 屋にはいるところがなく、家畜のえさ箱に寝 かされました。この時のサマリヤでもそうでした。人々がイエス様を受け入れなかったということは、夜、泊めても らえる場所がなかったということでしょう。 地上にいる間、常にこの連続です。そのようにしてエルサレムに向かって進んで行かなければならない。イエス様に ついて行くということは、贅沢な暮らしや快 適な暮らしを捨て、こういう生活を甘んじて受ける心の用意がなければならない。その覚悟をあなたは持っている か、とイエス様は言われたのです。

2人目の人にはイエス様の方から声をかけられました。59~60節:「イエスは別の人に、こう言われた。『わた しについて来なさい。』しかしその人は言っ た。『まず行って、私の父を葬ることを許してください。』」すると彼に言われた。『死人たちに彼らの中の死人た ちを葬らせなさい。あなたは出て行って、神 の国を言い広めなさい。』」 これまたショッキングな言葉です。父親の葬りは他人にさせて、あなたは福音を伝え なさい、とはキリスト教は家族を大事にしな い宗教なのか!という声が聞こえてきそうです。もちろんそうではありません。十戒の第五戒に「父と母を敬え」と ありますように、親を敬い、大事にすること はキリスト教の大切な教えの一つです。しかしここでのポイントは、それよりももっと大切な事があるということで す。問われていることは、「善」と「最善」 の間の選択の問題です。父を葬ることはもちろん善です。しかしもう一つの善、いや最善があった場合、私たちは どっちを取るのか。考えてみるべきは、果たし て私は最善のことをしないで、ただの善を行なっていることはないかということです。あるいは私たちには今自分が 行なっている善を一旦脇に置いて、もっと取 り組むべき最善があるのではないか。

ある人はこの2番目の弟子候補者の父はまだ死んでいないと見ます。もし死んだ直後で葬式の準備に忙しかったら、 ここでイエス様とこんな話をしているはずが ない、と。そうだとすると彼はここで、父親が死ぬまでは弟子となることは待って欲しいと言っていることになりま す。しかしそのようにして主に従うことを伸 ばし伸ばしにしたら、その人は結局、人生のほとんどをそのために費やしてしまうかもしれません。そしてイエス様 の弟子にならないかもしれません。これは正 しいことを行なっているようでありながら、真に大事なことを後回しにしてしまっている例です。

しかし、私たちはこの適用については注意も必要だと思います。なぜならマルコの福音書7章のコルバンの記事に見 られますように、神への奉仕という名目のも とに両親を敬わない言い訳とする悪用ケースもあるからです。基本的に聖書の教えでは、神を恐れ敬うことと両親を 恐れ敬うこととの間に矛盾はありません。両 親を敬い、老いた親の世話をすることは神への奉仕の一部です。従ってある人にとっては家族のために仕える生活を することがイコール神を礼拝し、イエス様に 従う第一のあり方であるという場合もあるでしょう。牧師や宣教師でも、親の最期の世話をするためにある期間、働 きを脇に置くのが御心である場合もあるで しょう。しかしここで言われていることは、そのことが今、主に従うことを後回しにするものとなってはならないと いうことです。善にまさる最善を優先して選 び取るべきことをイエス様は言っておられるのです。

3人目の人はイエス様にこう言いました。「主よ。あなたに従います。ただその前に、家の者にいとまごいに帰らせ てください。」 主に従う生活の前に家族と 最後の別れの時を!と願った先例として、Ⅰ列王記19章にエリシャのケースがあります。彼はエリヤに従う前に、 いとまごいの時を申し出、許可されました。 しかしイエス様はこう言われました。「だれでも、手を鋤につけてから、うしろを見る者は、神の国にふさわしくあ りません。」 これはイエス様はエリヤ以上 の方である!というメッセージを持つ言葉だと思います。イエス様の言葉を見ると、この人には「後ろを見る」傾向 があったようです。そんな彼は、家に戻った ら、そこにとどまり続けるかもしれない。後ろを見るということで思い起こされるのはロトの妻です。ソドムとゴモ ラが滅ぼされた時、彼女はうしろを振り返っ たために塩の柱になってしまいました。なぜ彼女は後ろを見たのでしょう。それはそれまでの生活に未練があったか らです。自分のこれまでの生活、この世の楽 しみに心が捕らわれていたからです。そのように後ろを向いていたら、手に鋤を持っていても、まっすぐに土を掘り 起こし、うねを作ることはできません。パウ ロはピリピ書3章で、わたしは「うしろのものを忘れ、ひたむきに前のものに向かって進み」と言いました。そのよ うにまっすぐ前を見つめてご自身に従って来 る者でなければ神の国にふさわしくない、とイエス様は言われたのです。

私たちはこのようなイエス様の言葉を聞いてどう感じるでしょうか。あまりに厳し過ぎる!これでは誰が付いて行け るだろうか!と思うでしょうか。しかしこれ らをどう感じるかは、私たちがイエス様にどれだけ感謝しているかによって変わって来ることだと思います。イエス 様は決して私たちにだけ厳しい注文を付けて いるのではありません。イエス様がここで仰っていることはみな、イエス様ご自身が経験しておられたことです。イ エス様は神の御姿である方なのに、ご自分を 無にして、仕える者の姿を取り、地上では枕する所もない生活をされました。またあらゆる恐れ、悲しみ、心配を振 り払って、エルサレムにまっすぐ御顔を固定 して歩まれました。これらはすべて、私たちの救いを勝ち取るためにイエス様が払われた犠牲です。私たちが勘違い しないようにすべきは、私たちはイエス様に ついて行くことによって、本来負わなくても良い重荷を背負わされるのではないということです。イエス様がこのよ うな歩みをしておられるのは、私たちの罪の 重荷を代わりに背負っていて下さるからです。私たちはその私たちの重荷を背負って歩いて下さるイエス様について 行くだけなのです。ですからこれは、イエス 様に従うことを選ぶとか選ばないとか言っているような問題ではないのです。私たちはただ感謝してこの方について 行くしか道はないはずです。そのイエス様に ついて行く歩みには確かに困難があるでしょう。しかしイエス様が十字架を経て栄光に入ることをしっかり望み見て おられたように、イエス様に従う私たちの歩 みも、たとえ十字架にたとえられる暗い谷を通っても、それは栄光へつながっているものです。それに私たちはイエ ス様に従う時、愛する家族やその他のことを 本当の意味で捨てるのではありません。イエス様はペテロの姑のところに行って癒しを行なわれました。またイエス 様自身、十字架上にありながら、母マリヤの ことを心にかけ、その後の生活を弟子のヨハネに託されました。ただイエス様が言っていることは、第一番目にすべ きことを第二、第三の位置に持って来て、逆 に第二、第三のことを第一番目に持って来ることがないようにということです。マタイ6章33節:「だから、神の 国とその義とをまず第一に求めなさい。そう すれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。」 私たちに求められていることは第一の事を第一に すること。すなわち主に従うことを優先する こと。そうする時、主がそのように従う私たちに一番良いように他のことすべてを導いて下さる。そのことに私たち は信頼して、主を第一に選び取って行けば良 いのです。

果たして、この3人の弟子候補者はどう応答したでしょうか。そのことはルカは書き記していません。それはこれを 読んだ私たち一人一人が自分の生活を持って この答えを出さなければならないからです。この続きを記して行くのは私たち自身です。私たちはもう一度このイエ ス様の言葉の前で自分自身を吟味させられた いと思います。そしてこのイエス様こそを私たちの最も大事な方と告白し、その感謝を主の招きに従う生活に現わ し、滅びに向かうはずだった私たちを栄光へ導 いて下さるイエス様の後について、この方に従う生活へと進んで行きたく思います。