ルカの福音書 7:36-50

多く赦された者
今日の箇所にはイエス様以外に二人の人が登場します。一人はパリサイ人シモン。イエス様は彼がパリサイ人だ からと言って、毛嫌いしたわけではありませんでした。シモンがどういう目的でイエス様を家に招いたかは分か りませんが、イエス様は求める人にはいつもこのようにして下さいました。

もう一人は罪深い女です。食卓についていると突然、彼女がイエス様の後ろに現れて、その御足に何かをし始め ます。当時の人々の生活は今日の私たちよりももっとオープンであり、このような宴会の席に入って来たからと 言って、すぐ咎められることはありませんでした。また当時のユダヤ人たちは、体を横たえて食事をしましたの で、テーブルから遠い方向に伸ばされた足に近づくことは比較的容易でした。その彼女が驚くべきことをしま す。彼女は泣きながら、涙でイエス様の足をぬらし始めます。次には髪の毛で拭い始めます。そしてさらにイエ ス様の足に口づけをし、高価な香油を塗り始めた。

これを見てパリサイ人シモンは、彼女を軽蔑の目で見たのはもちろんのこと、イエス様に対しても軽蔑の心を抱 き始めます。このイエス様は預言者かと思って家に招いたが、全くそんな人ではない。なぜならこの女がどんな 女かを知っているなら、とてもこうはさせられないだろうから、と。そんなシモンに向かってイエス様は大切な ことを話して行かれます。

まず、41~42節で一つのたとえを語られます。「ある金貸しから、ふたりの者が金を借りていた。ひとりは 500デナリ、ほかのひとりは50デナリ借りていた。彼らは返すことができなかったので、金貸しはふたりと も赦してやった。では、ふたりのうちどちらがよけいに金貸しを愛するようになるでしょうか。」と。1デナリ とは当時の一日分の労賃に相当します。計算しやすいように一万円とすると、500デナリは500万円、50 デナリは50万円になります。確かに500万円も借金したら大変です。ただでさえ苦しくてお金を借りたの に、そんなに膨れ上がってしまったら、よっぽどの状況がなければ返済はほとんど絶望的。ところがそんな状況 を見て金貸しがどちらの人も赦してやりました。すなわち全額免除してやったのです。その場合、どちらがより 多く愛するようになるでしょうか。パリサイ人シモンは「よけいに赦してもらったほうだと思います。」と答え ます。イエス様も「あなたの判断は当たっています。」と言われました。そしてこの真理を目の前の状況に当て はめて行かれるのです。

イエス様は44~46節でシモンと罪深い女のしたこととを比較しています。まず、シモンはイエス様が彼の家 に入って来た時に、足を洗う水をくれませんでした。それに対して女は涙でイエス様の足をぬらし、髪の毛で 拭ってくれました。またシモンはイエス様を迎える際に口づけをもって挨拶してくれませんでしたが、女はイエ ス様の足に口づけしてやめませんでした。またシモンはイエス様の頭に油を塗ってくれませんでしたが、女はイ エス様の足に香油を塗ってくれました。果たしてシモンは当時の一般的習慣に照らして礼儀に反する迎え方をし たのか、それとも最低限の迎え方はしていたのか、は議論があります。しかし彼がイエス様に対して、心からの 歓迎やもてなしを示さなかったのは確かでしょう。それに対して女は、彼にはるかに勝る迎え方をしました。こ れは何を示しているでしょうか。イエス様は47節で言われます。「だから、わたしは『この女の多くの罪は赦 されている』と言います。それは彼女がよけい愛したからです。」 ここに「罪の赦し」と「愛」の関係につい て、私たちが今日、一番心に留めるべきメッセージがあります。一見、今の47節のイエス様の言葉は分かりに くいものです。彼女はイエス様をよけい愛したという愛の行ないが罪の赦しを獲得したかのように読める。しか し、実際はそういうことを言っているのではありません。そうだとすれば、先のたとえと矛盾してしまいます。 41~42節のたとえから分かることは、赦しが先であるということです。そして多く赦された者が多く愛する ようになるということです。つまり、イエス様のここでの「よけい愛したからです。」という言葉は、罪の赦し の「原因」を語ったものではないのです。そうではなく、彼女がよけい愛したことから次のことが分かる。すな わち彼女の多くの罪は赦されているということである、という「結果」からものを見た言い方なのです。彼女が このように多く愛したということは、彼女がすでに多くの罪を赦されていることの証拠である、と。そしてイエ ス様はこうも付け加えられました。47節後半:「しかし少ししか赦されない者は、少ししか愛しません。」  これはシモンにとっては厳しい言葉だったでしょう。もし少ししか愛を示さない人がいるとすれば、それはその 人が少ししか赦されていないという事実を示している。その人は本当には罪が赦されているかどうか疑わしい。

これは私たちの心をも探る御言葉です。私たちが問われることは、私の主に対する愛はどうであるかということ です。私たちは今日の箇所に出てきた二人のどっちに似ているか、ということです。果たして私はイエス様の足 を涙でぬらし、髪の毛で拭い、口づけし、香油を塗った女に似ているか。それともパリサイ人シモンに似ている か。私たちもシモンのように、イエス様を自分の心の家に迎え入れたかもしれません。イエス様を信じます、と 信仰告白したかもしれません。しかし彼のように、あとは特段何もせず、放っているということはないでしょう か。すなわちイエス様をもてなすために何もしていない。心を用いていないし、時間をささげていないし、労も ささげていない。もしそうであるなら、それは私たちの罪の赦しに関して何を示しているでしょうか。少ししか 愛していないなら、それは少ししか赦されていないからだとイエス様は仰います。これは私についても重大なこ とを示しているのではないでしょうか。

では、どうしたら良いでしょうか。この女のようにたくさん悪いことをして来た人間なら、赦される罪も多く、 その分よけい感謝し、よけいイエス様を愛するようになるだろうが、そこまで罪を犯していない自分は・・・な どと考えるべきでしょうか。そういう私はもっと外に出て行ってもっと罪を犯すべきと考えるべきでしょうか。 そうではありません!私たちに必要なことは、自分がすでに十分な罪人であることをしっかり目を開いて見るこ とです。私たちに足りないものはもっとたくさんの罪ではなく、神の御前に自分が本当は罪深い者であるという 自覚であり、認識です。私たちは自分を正直に振り返るべきです。むさぼる心、人の噂話や陰口を楽しむ心、す ぐに怒って周りの人を傷つける言葉を発する自分、自分中心に世界が回っているかのような自己中心、また高慢 な態度や生活、・・・。自分の姿を正しく評価するなら、「私はせいぜい50デナリ借りがある程度の人間で あって、500デナリ借りがある人とは種類が違う!」などとはとても言えない。人との比較など視野にはな く、自己破産の絶望状態にあるのはこの私のことだとしか思わなくなるはずです。そういう罪だらけのどうしよ うもない醜い自分が、イエス・キリストの尊い十字架の犠牲によって全く赦され、聖められることができる。信 仰を告白して後も、繰り返して罪を犯してしまう本当にどうしようもない自分を悲しみ、自分をキリストのもと に持って行くたびに新たに赦される恵みにあずかることができる。もしこのように自分をとらえ、キリストに近 づくなら、キリストが下さる罪の赦しは何と私たちに慰め深く、また甘美なものでしょうか。そこからは必ず私 たちの愛の応答が導かれるはずです。

イエス様は48節で女の人に向かって、「あなたの罪は赦されています」と語られました。彼女はこの言葉を頂 く前にすでに赦されていました。だからイエス様を愛しました。しかしそういう人にイエス様は何度でも罪の赦 しを確証して下さるのです。自分の罪を自覚し、本当にこんな自分は赦され得るのだろうかという思いと戦う私 たちに、イエス様は繰り返して「あなたは赦されています。」と語って下さるのです。人々はこれを聞いて「罪 を赦したりするこの人は、いったいだれだろう。」と心の中で言います。そんな中、イエス様は50節でこのよ うに言われました。「あなたの信仰があなたを救ったのです。安心して行きなさい。」 イエス様は大事なのは 信仰であるということを改めて彼女に教えておられます。愛の行為が彼女を救ったのではないのです。イエス様 への信仰が彼女を救ったのです。そこから彼女の愛の行為は出て来たのです。これからもその信仰を大事にし、 神が下さる祝福の中を歩みなさい!とイエス様は励まして下さったのです。

私たちは果たしてイエス様を愛している者でしょうか。私たちは決められていることはしているかもしれませ ん。果たすべき義務は果たしているかもしれません。しかし私たちは主を愛して生活しているでしょうか。これ は私たちの信仰を試す確かなテストです。私たちはこの主への愛から、自分の信仰の状態、また霊的健康度を逆 算することができるのです。果たして私たちのイエス様への愛は、年を経るごとに成長しているでしょうか。私 たちに必要なことは自分の罪の自覚です。自分は何と神の御前に罪がある、汚れに満ちた、どうしようもない者 であるかを知ることです。しかしそんな私たちにとっての福音は、そういう私たちの罪を全く赦すためにイエス 様は来て下さったということ。そしてご自身の尊いいのちを身代わりにささげて下さった。イエス様は罪深い女 の精一杯の応答を喜んで受け入れて下さったように、私たちがどんなに罪深い人間でも、そんな私たちの罪を赦 し、またそんな私たちの愛の応答を喜んで受け入れて下さるのです。私たちは自分は主の御前でどういう者であ るかを探り、自分の罪について悲しみ、それを主のもとに持って行きたいと思います。そして主が与えて下さる 全き赦しときよめとに日々あずかりたい。その時、私たちは初めてイエス様を本当の意味で愛する歩みができる 者となるのです。そしてそういう人に主は言って下さいます。「あなたの多くの罪は赦されています。それはあ なたがそのようにわたしを愛しているからです。」と。