ルカの福音書 2:1-20

すばらしい喜び
先ほどの子ども向けのお話で1~7節の部分を見ました。クリスマスは神ご自身である お方が人となってこの世に 来られた出来事です。本来ならすべての造られたもの――人間も動物も昆虫さえも――がこの方の来臨を心から 歓迎し、ひれ伏してお迎えすべき出来事です。しかし≤この方を人間は受け入れませんでした。そしてイエス様は 家畜小屋へ追いやられ、飼葉おけに寝かされました。誰にも気に留められずに、ひっそり誕生したのです。

しかし、神はもちろんこのままで終わりにはされません。このクリスマスの出来事の意味を「ある人々に」は はっきり示されました。それは野宿で夜番をしていた羊飼いに、でした。羊飼いは当時、人々に見下げられていた ようです。彼らは野で羊を飼う仕事のために、人々が定めた様々な宗教的儀式を守ることができませんでした。 また、この時は住民登録で忙しかった時ではないでしょうか。つまり彼らは人間として頭数にも入れられない ような扱いをされていたのです。そんな彼らにイエス様誕生の最初の知らせが告げられました。このことはイエス様に よる救いはどんな人にも差し出されているという真理を示しています。人々から見下されている人々、社会の底辺に いる人をも、神は大事に見て下さって、その祝福のために尊いキリストを送って下さった。

御使いは羊飼いたちに言います。10~11節:「恐れることはありません。今、私はこの民全体のためのすば らしい喜びを知らせに来たのです。きょうダビデの町で、あなたがたのために、救い主がお生まれになりました。 この方こそ主キリストです。」 そしてキリストは布にくるまって飼葉おけに寝ていること、それがあなたがたの ためのしるしである、と語ります。するとたちまち多くの天の軍勢が現れて大合唱をします。いわゆるグロリア・ イン・エクセルシス・デオの賛美です。御使いたちはこの方の誕生がどんなに素晴らしい意味を持っているかを 良く知っています。ですからこの賛美歌を歌いました。ですからこの御使いの賛美の言葉から、私たちはクリスマスを どのように見るべきか、教えてもらうことができます。ここから3つのことを見て行きたいと思います。

まず御使いが最初に歌ったのは、神への賛美です。14節前半:「いと高き所に、栄光が、神にあるように。」  何事においてもまず最初に来るべきは神様のことです。御使いたちはこのクリスマスの出来事に驚かずにいら れませんでした。イエス様は神様です。永遠の昔から父なる神のふところにおられる一人子の神です。その栄光 の神が罪人のためにご自分を無とし、人間となって誕生されました。しかも家畜小屋の貧しい飼葉おけの中に! 先の子ども向けのお話で見ましたように、これはやがての私たちの身代わりのための十字架の死へと向かう生涯 の歩みのスタートです。そこに進むために人として生まれ、その最初からこんなに身を低めてへりくだっている。 そうして罪ある人間を何とか救おうとしている。このような神様のお姿を正しく見つめるなら、心からこの 方をほめたたえずにはいられません。ここに神はどういう方かが示されています。神は聖なる方であり、全知全 能の方ですが、神はただご自分の力や偉大さを示して栄光を現わされるのではないのです。神はその力を他の人 のために使うことにおいて、他の存在を愛し、そのためにご自身をささげて仕えることにおいて栄光を現わされ るのです。古くからの約束に従って罪人をあわれみ、ついにその救いのためにこうして身をかがめた神の姿を見て、 御使いたちは大合唱をもって御名を賛美し、礼拝せずにいられなかったのです。

さて、このような御子の誕生を通して与えられる祝福が、14節の2行目に「地の上に、平和が」という言葉で 歌われています。2つ目にこのことを見て行きます。この時は「ローマの平和」と呼ばれる時代でした。それまでの 長い期間に渡る戦争やクーデターによって、人々は疲れ切っていましたが、1節に出て来た皇帝アウグスト、 本名ガイウス・オクタヴィアヌスの決定的勝利によって、地中海世界には戦争が止み、平和と秩序が回復されました。 すなわち、ローマ帝国の確立です。しかしその平和は武力によってもたらされた平和であり、外的な平和でしか ありません。それに対してイエス様は真の平和をもたらすことができるお方です。真の平和とは何でしょうか。 これを考えるには創世記の天地創造にまで遡らなければなりません。神が最初に造られた世界はまさに平和が 満ちる世界でした。創世記1章31節に「神はお造りになったすべてのものを見られた。見よ。それは非常に 良かった。」とあります。つまりすべてのものが美しく調和し、一致し、神を称える素晴らしい世界がそこに ありました。そういう世界から平和が失われたのは人間の罪ゆえでした。アダムとエバの罪によってまず神と人との 平和が失われました。次にその結果として、人と人との平和が失われました。そしてさらに人間とこの世界の 自然との間にも平和の関係が失われました。種を蒔けば豊かに刈り取ることができた世界がイバラとアザミの 生えるところとなり、また様々な自然災害が起こって人間に襲いかかるようになりました。このために私たちの 生活のあらゆるところに争いがあり、混乱があり、不協和音があり、悲惨があります。なお神様の恵みの御手に よって最悪の状態に行き着くことからは守られているとしてもです。そんな私たちに、この時に誕生した御子が 真の平和をもたらして下さいます。どのようにしてでしょうか。それは今見た混乱を一つずつ解決して下さることに よってです。まずこの方が下さる平和は神との平和です。このキリストなしに、私たちは決して神との平和を 持つことはできません。罪のために神にさばかれるという恐れの中で生きなければなりません。すべての祝福の もとなる神様に怖くて近づけないのです。そして死が怖い。死んだ後、神の前に立たされて最終的なさばきを 受けるはずだ、自分がこの世で犯した罪が問われないまま終わることはないと薄々感じているので、怖い。しかし、 このクリスマスの時に誕生されたイエス様が、やがて十字架上で私たちの罪の身代わりとして死んで下さることに よって、私たちの罪の問題は解決されるのです。それは私のために神がして下さったことだと信じ、イエス様に 従う時に、神との関係は回復され、神との平和を持てるのです。この神との平和はすべての祝福の基礎です。 この神との平和を持つなら、この地上の人生で色々なことがあっても、何も怖いことはありません。将来についても 何も心配は要りません。分からないこと、先の見えないことがたくさんあっても、神の大きな御手に信頼していれば 良い。また他の人が自分をどのように言おうとそれに振り回されることもありません。また大事なものを無くしたり、 最愛の人を失っても、神がすべてを働かせて必ず良いようにして下さいます。こうして神との平和という客観的な 平和は、私たちの心の中に「平安」というどこまでも広がる心の平和をもたらします。そして、そこから人と人との 平和も導かれて行きます。神の守りと愛を知る時、私たちはもはや自分で自分を守ろうとする歩みから解放されます。 人生は他の人との競争というサバイバルゲームではなくなります。むしろ神に信頼して、神が喜ぶように他の人に やさしくし、神が赦して下さったように他の人を赦し、神が愛して下さったように他の人を愛する歩みへと導かれます。 そして、このように私たち人間の罪が赦され、正しい状態に回復されるなら、この世界や自然も本来の姿へ回復されます。 たとえば、ローマ書8章に、この世界を治める立場にある人間が回復されることによって、この世界も本来の輝きを 取り戻すことが語られています。もちろん私たちがキリストを信じた瞬間に、これらのことが一気にみな最終的な形で 実現するわけではありません。これらが究極的に実現するのはやがての天の御国においてです。しかし、今ここに ある時から確実にこの祝福に向かって進んで行くのです。平和の君であるキリストを受け入れ、この方に従うことに よって、私たちは争い、混乱、無秩序の生活から、平安、喜び、調和の生活へ導かれるのです。

御使いたちの賛美の言葉から最後に注目したいのは14節3行目の「御心にかなう人々にあるように」という言葉です。 これはどういう意味でしょうか。一言で言えば、これはキリストによる平和の祝福は神が良しとされる人に与えられる ということです。必ずしも全員ではありません。このことを決める決定権は神にあります。人間にあるのではないのです。 なぜでしょうか。それは人間は罪を犯して、神の前に何も主張したり、要求することはできないからです。「義人は いない。一人もいない。」と聖書にある通りです。むしろふさわしいのはさばきであり、永遠の滅びです。しかし、 素晴らしい知らせは、神は全人類をそのようには扱わず、ご自身の恵みによってある人々を救って下さるということです。 私たちとしては、ある人々だけではなく、全員を救ってくれたらと思うかもしれません。しかし、もし神が自動的に 全員を救うとしたら、私たちは何もしなくて良いことになります。好き勝手に生活しても、どうせ神は救ってくれるの だから、という生き方になってしまいます。神はそうはされません。神は私たち皆に、ただイエス・キリストへの信仰を 求められます。あらゆる箇所で、キリストを救い主として信じなさい、と語っています。イエス様は「だれでもわたしの もとに来なさい!」と言っています。ですから私たちのすることは、この神の招きに従ってイエス様のもとに行くこと です。この方を信じ、この方により頼み、この方に従うことです。しかしこの14節の御使いの言葉と合わせて考える時に 分かることは、もし私がそのようにイエス様への信仰を告白し、イエス様に従って行くことができるとすれば、それは 神が私を「御心にかなう人々」の中に入れて下さったからだということです。私たちの内側には何も神に認められる ような良いところはありませんが、神が一方的にこんな私を御心に留めて下さり、特別な恵みを注いで下さった。 その恵みによって私は信仰を告白し、救いにあずかる者となったということです。決して自分の理解力や自分の立派さに よったのではありません。そのことはここで恵みを受けた羊飼いたちのことを考えてみれば分かります。彼らは 何も神の前に誇るものを持っていません。周りの人々からはむしろ見下げられていた人たちです。そんな彼らを 神が恵みにより、御心にかなう人として下さり、この素晴らしい喜びの知らせをまず知らせて下さった。そして 彼らはそのように神の御心にかなう者とされたことを、この知らせを受け止め、喜んでベツレヘムに行き、自分 たちの見聞きしたことを伝え、神をあがめ、賛美しながら帰って行ったことに現わしたのです。このように神の 恵みを喜んで受け取り、神に栄光を帰し、喜びを持って神に従う人こそ、神が御心にかなう人として下さった人なのです。

これから5名の兄弟姉妹の信仰告白式を行ないます。この兄弟姉妹たちはこれまで契約の子として主の恵みの中で 育まれて来ました。そして今や自分の意志を持って、主への信仰告白をしようとしています。ここに今、現わされ ようとしていることは、主がこの兄弟姉妹たちを御心にかなう人として下さったということです。主の恵みが この信仰告白へと導いて下さったのです。その告白を聞いて、私たちは主の御名を賛美したいと思います。そして 主は御使いが14節で歌ったように、御心にかなう人々をいよいよ平和の道へ導いて下さいます。これから どんなことがあっても、神との平和を頂いた人たちには、この大いなる祝福が実現して行きます。イエス・キリストは この祝福を与えるために、このクリスマスの時に私たちのところに来て下さいました。そして地上の生涯 を最後まで歩み通し、十字架と復活によって贖いを成し遂げたお方として、信じる者たちを確実に真の平和へと導いて下さるのです。